どうも、管理人です。
パリの観光名所ノートルダム寺院が15日の夕方に大規模な火災が発生しました。
これは各報道機関でも報じられているため周知の事実だと思いますが、一応内容引用しておきます。
午後7時50分(日本時間午前2時50分)ごろ、寺院の尖塔上部が、屋根全体に広がった炎の中に崩れ落ちると、群集からは悲鳴が上がった。その直後に尖塔の残りが崩れ落ち、人々は再び息をのんだ。尖塔崩壊の様子は、数千人が携帯電話のカメラで撮影した。
友人から火災の情報を聞きバイクで駆けつけたフィリップさん(30代半ば)は「パリの美観が損なわれた。パリはもう二度と元には戻れない」と語った。ある女性は涙を流し、記者の質問に答えられないほど動揺していた。
現場を見にやって来たジェロームさん(37)は「なぜ火災が起きたかを知る必要がある。世界であらゆることが起きている中で、なぜノートルダムなのか? 天からのメッセージなのかもしれない」と話した。バイクで現場に到着したブノワさん(42)は「信じられない。私たちの歴史が煙の中に消えている」と語った。
引用: 「パリはもう元に戻れない」 ノートルダム寺院炎上に市民ら涙
この内容を元に遠い日本に住む僕自身がどういったことを感じ、考えなければいけないか考えた内容を記載します。
ノートルダム寺院とは
ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。
引用: Wikipedia
182年もの歳月をかけ建てられた多くの人が関わり、多くの想いから作られた歴史的建物ですね。
フランスカトリックの総本山とも言われているらしく、日本でいうところの伊勢神宮のような立ち位置なのでしょうか?
寺院内でお祈りする方も数多くいらっしゃるとか。
これは大ニュースになりますね。
なぜ発火したの?
大聖堂は修復工事中であり、その作業中にはんだごてが使われていたとみられる。
ツイッター上ではフランス語で「作業員がはんだごてを置いたまま、その場を離れた」などという情報や、それに関するフランスジョークも飛び交ってる。
大聖堂は修復工事中であり、その作業が原因となった可能性があるという点については報道されている。具体的な作業工程等については報道されていない。が、ネット上では「はんだごて」説が広まっている(まだ噂の段階かもしれない。現地の人が見聞きしたのかもしれないが)。
引用: にんじ報告
上記記事によると、修復工事中に使用した機器の後始末不備によることが原因ではないか?ということですね。
たしかに、今まで何百年と建物が維持されてきたことを考えると、外部の人間が原因と少し考えてしまいますね。真実はわかりませんが、納得は出来ます。
ノートルダム寺院炎上から学ぶべきこと
本題です。
この歴史に名を残すであろう出来事から何を学ばないといけないでしょうか?
決してこれは遠い国の出来事ではなく、身近で起こりうる話だと思います。
この現象というのはつまるところ「身近にあり、存在するのが当たり前で、無くなるなど考えもしないものが突然無くなってしまう」ということだと思います。
日本で例えるなら伊勢神宮などの由緒正しい神社、身近で例えると家族や家だと思います。
これらが無くなる可能性が普通にあるということ。
いま、当たり前と思っている日常が、ふとした瞬間にすぐに消えてしまう可能性が十分にありうるのです。
これに対しどのような態度であるべきかが重要だということです。
日常は当たり前ではない
存在しているものは数々の奇跡の積み重ねの賜物だということを忘れたくないですね。
色々な人が様々なタイミングにより仕事として建築現場に集まり、建設する。
災害などもどの地域にも起こりうるが耐えられる程度のものなどしか今までこなかったのも偶然の賜物です。
これは建物しかり人間関係にしかり全てに言えることです。
この奇跡の連続に感謝し、大切に生きようということが教訓になるのかなと考えました。
原因ではなくこれから
僕は最初、このニュースを見た時、原因となった人物や事象は大変な責任になるのだろうなと思いました。
しかし、この原因を作った人物や事象を責め立てることで何か解決するのでしょうか?
大事なのは「これからどうするか?」なのではないかと考えました。
これはあらゆる事象に通じるかと思います。
人間関係などまさにこれで、悪いあの人ではなく、これからどう上手く物事を運んでいくか?これを大事にしていきたいですね。
最後に
日本人の僕が見てもとても悲しいニュース。
現地の人の悲しさは測りしれません。しかし、いっ時の悲しさを思い切り悲しみ、これからどうするか?を考えられるよう強く生きていきたいですね。自戒です。